山口の歴史

山口の歴史

私たちの町愛知県瀬戸市山口地区は、2005年に開催された日本国際博覧会「愛・地球博 瀬戸会場」を地区内に抱えた緑豊かな田園地帯です。
近年は、名古屋市や豊田市のベッドタウンとして宅地化が進み新しい住人が急激に増えています。
地区の歴史は古く、縄文時代(今から約2000年前)、弥生時代(今から1500年前)後期高葉時代の遺跡や古窯跡が発掘され、瀬戸市内の古墳の多くは山口地区に点在しており、この地域には古くから住民が住んでいたことが示されています。その住居様式は横穴式石室構造です。
8世紀はじめには、山口八幡社が、13世紀はじめには本泉寺が創建され、神社・仏閣を中心に地域が賑わいを呈していました。11世紀中ごろには、地域東部の広久手地区で山の斜面を活用した登り窯式窯業も始まりました。
山口の地名は、三河の国・猿投山の入り口にちなむものと言われ、猿投神社へ通じる街道沿いの地域として、活況を呈していました。
・明治22年(1889年)村制施行により山口村誕生
・明治39年(1906年)幡野村と合併し幡山村となる
・昭和30年(1955年)瀬戸市に合併して現在に至ります。

地域内には国道155号線が南北に通り、昭和63年(1988年)旧国鉄の岡多線(現在の愛知環状鉄道)が開業しました。これにより交通の便が良くなり、更に国際博覧会の開催を契機に道路や鉄道網が整備されて発展することが期待されております。

【秋祭り】山口八幡社(郷社)の秋祭り

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旧暦9月16日に行われてきた。明治14年(1881)、この氏神祭札は猿投祭札と同格におこなわれることになり、年によっては、近郷の五か村(菱野、本地、前熊、大草、北熊)からオマントが奉納される郷社祭りがおこなわれた。それ以外の年は、山口の各嶋からオマントが出された。祭が終わると稲刈りの時期であった。山口は12の嶋より成っており、昔は八幡社の秋祭りの時、嶋ごとに馬を借りてきてオマントを出していた。オマントに使う槍や飾りなどのダシは、各嶋ごとに保管されていたが、古くなって処分したりして現在では散逸してしまっていることが多い。今東島(大坂)には、弘法堂に現在でも保管されている。
現在は、秋祭りの時に連区で馬を一頭出している。ダシは猿投合宿に用いた九本の矢のものを用いている。馬付は青年幹事が務めている。

【棒の手】

A6_bounote山口には起倒流、無二流、検藤流の三つの流派がありました。昔は、嶋(ムラの内部区分で人々のくらしにより密接した内部組織)ごとに棒の手の練習をして秋祭りに奉納しました。小学校を卒業する12、3歳から20歳までの若者がおこない、白い襷に白鉢巻をし、黒い腕貫に槍・太刀・長刃・鎌などを持って、演技を披露しました。20年程前から保存会を作って技の継承を行っています。

【その他】山口の昔話

山口に伝わる昔話として、
■首なし地蔵(石田町)
■てんぐの弾蔵さん
■山口の雨乞い などがあり、以下の文献で紹介されている。

参考文献1:
せと・あさひのむかしばなし1
瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会 発行
参考文献2:
せと・あさひのむかしばなし2
瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会 発行
参考文献3:
瀬戸市史民族調査報告書一 幡山・今村地区
瀬戸市史編纂委員会 発行