旧山口村

第一章山口地区(旧山口村)

一、位置

山口村は、旧愛知郡の北東端に位置し、尾張の最高峰である猿投山(六二九米)に接している。村の中央を山口川(現矢田川)が貫流し、その南北には丘陵地(一〇〇~一五〇米)が続いている。主な集落は、山口川の北側と東側に点在している。村役場は、明治初期には本泉寺に設置されたが、明治二十二年からは、山口学校(現幡山東保育園付近)へ併設された。明治三十九年に、山口村と幡野村が合併し、幡山村が誕生し、村役場は菱野村東福寺へ設置された。

(1)隣接町村

明治三十九年の幡山村誕生以前は、東は物見山を境にして西加茂郡広見村・加納村と接していた。西は菱野村と接し、南は長久手村・八草村(現豊田市)と接し、北は瀬戸村に接していた。山口の地名は、三河国猿投山の入口であることから、山の入口、山口と呼ばれるようになった。幡山という地名は、明治三十九年の合併に際し、旧村名(幡野村・山口村)を一字ずつとって名付けられた。

(2)国道・県道

古くは、三州八草道・猿投山道・菱野村道があり、尾張国と三河国を結ぶ重要な街道が通っていた。現在では、国道二四八号・一五五号を中心にして、県道瀬戸環状線・瀬戸青少年公園線などが通っている。昭和六十三年、愛知環状鉄道(岡崎・高藏寺間)が開通した。山口地区の中心部に、山口駅ができ、瀬戸市の南玄関として将来の発展が期待されるようになってきた。

(3)河川・用水

山口村古地図によると、大川(山口川)へ流入する支流として、海上川・屋戸川・薬師川・十王川・神明川・八幡川・天神川(今林川)・越中川などがあった。また、農業用溜池としては、念仏塚池・とびがね池・穴虫池などがあった。

二、山ロの街道と橋

(1)挙母街道

瀬戸から山口、八草、篠原、伊保、四郷、梅ヶ坪を通り挙母に行く道を挙母街道と呼んでいた。山口村当時、この挙母街道の道すじは、瀬戸の記念橋から茨の谷を通り、ほぼ真直に山を登り、八幡池の近くを通り、興福寺の西から、うねりながら天神橋を通り、上之山の谷間の東側の山の中腹から鉢割坂・鉢割池、そして三河国八草村から、挙母へと街道があった。昭和の初期には、愛知県の施行工事により、山口地内の通称せと坂の改良工事が行われて道巾も広くなり、瀬戸から挙母まで、「ダイエイバス」が運行されるようになった。昭和四年には、岡多線(国鉄)の敷設にかわり、日本で最初の「省営バス」が瀬戸記念橋から挙母を通り岡崎駅まで運行されるようになった。現在は、国鉄から、JR東海バスと名称が変わってきた。

(2)天神橋の歴史

江戸時代の天和年間(一六八一~八三)ころ山口川で大洪水がおこった。現在の山口公民館の前(小学校跡地)附近は、竹やぶで天神さまが祀られていた。その近くにかけられたのが「天神の橋」であった。この頃は、川とやぶに挟まれたこの辺りの道は、馬なら一頭しか通れないほど狭く、すりかわれないので、人びとはこの道のことを「呼ばり待ち」といっていたそうである。この橋も大水の折りに流失をした。大正の初期頃は、尾張瀬戸から挙母(豊田市)を通り岡崎に通ずる県道を挙母街道と呼んでいた。この頃から山口川の木橋を天神橋と呼ぶようになった。昭和二十八年の台風により大洪水、昭和三十二年の集中豪雨等により、被害を受けて通行が出来なくなり、挙母街道の通行者は、不便を感じて仮橋を渡った。昭和三十四年九月二十六日には、中部地方をおそった、あの伊勢湾台風があり、その際には、風が強くて民家、公共施設の倒壊もあり、各家庭でも大被害を受けた。この天神橋も老朽化が甚しくて、翌年の昭和三十五年には、愛知県の予算で立派な鉄筋コンクリートの新しい橋が誕生した。新しい天神橋の完成を祝う、渡り初め式も盛大に行われ、山口区民の代表者を始め、小学生も参加して紙ふぶきをまき祝福した。高度成長により、自動車の交通量も多くなり、交通安全のため歩道橋が数年後に架設されて現在に至っている。

(3)掛下橋の歴史

その昔、山口川の氾濫により、曲りくねった川でしたが、大正の初期に、右岸を土盛りして堤がつくられて、台八車や馬車の通行が出来るようになった。昭和五、六年頃の農村凶荒の時に愛知県がこの山口川の堤防の改修工事を行なった。その当時、掛下部落の人々は、川北の柳ヶ坪、池田、石田の田圃へ行く時には、川の中へ入り川越えをしたものであった。もちろん荷物は、天秤棒でかつぎ運んだものであった。そうした不便をなくするために、掛下の人々が総出で川の流れに杭を打ち、長さ四メートル、巾四五センチ、厚さ約一〇センチの板を乗せて橋をつくり、一枚板の上を通行した。高さが低いために、少し大雨が降れば流されてしまった。大雨が降っても、橋が流失しないように、針金で岸にくくりつくように仕掛けてあった。それでも予想以上の豪雨の際には、下流に板が流されてしまうことがあった。その板をさがしに下流の旭村稲葉方面まで探しに行ったものであった。やがて、昭和十年頃には「リヤカー」と云う運搬車が各農家に使われるようになった。掛下橋も一枚の板では通れません。今度は縦に三枚板を並べて「リヤカー」で運搬出来る、板橋をかけた。その当時の天神橋は県道であったが、木橋のために大水が出るとよく流れたものであった。掛下橋も三枚並べた板橋が長く続いたので、「リヤカー」を引いて山口川に落ちた人も相当多くあった。昭和二十八年九月、この地方に来た台風による豪雨で、この掛下橋も流失してしまった。幡山村は、掛下橋について災害復旧工事の査定を受けて、国庫補助金により、延長約三十メートル、巾員一、八メートルで右岸道路と左岸道路の高さに木橋を完成した。その後この木橋も、昭和三二年の台風による増水、昭和三三年の水害で被害を受けた。瀬戸市は五年ごとに、改修工事を行っていった。この掛下橋も昭和六十年の集中豪雨により、三分の二が流失してしまった。そのために瀬戸市が国の災害復旧工事の査定を受けて、国庫補助により、現在の地に永久橋(延長四六、五メートル、巾四、○メートル)が、工事費約七千万円で建設された。当初の掛下橋は、薬師川と山口川の合流点より少し下流に架設されてたが、流水断面を多くするため水路面より一、五メートル道路をかさ上げしてつくられた。

三、寺院

(1)昔あった寺院

山口で現在ある寺は、本泉寺、興福寺の二ヶ寺である。しかし、古記録によると、鎌倉時代には、永勝寺、宝造寺、吉常寺、光明寺、建徳寺等々、その他神宮堂といった寺もあったといわれている。鎌倉時代、愛知郡山田庄上菱野村に建徳寺という寺があった。萬治三年(一六五九年)の大洪水によって、近くを流れていた薬師川が氾濫し、建徳寺はもちろん、人家もろとも下流におし流されてしまった。建徳寺のあった場所は現在の掛下町二丁目(旧大坪)地内であり、山口耐火原料工場の西の水田付近であり、水田を堀おこすと井戸の石積みを見ることができる。この土地の所有者は、この附近に先祖が住んでいた、建徳寺もここにあったと云っている。掛下の人々は、この附近の田んぼに行くときには、「建徳へ行く」といって出て行くということです。建徳寺は現在名古屋市中区新栄町雲竜ビルにある。薬師川は、大洪水で決壊したが、その後幾度も改良工事をくりかえし、今では上之山町一帯の雨水は、薬師川に流れ、そして掛下町一丁目で山口川に合流している。

(2)教春山本泉寺

当寺は山口字大坂にあって境内一五九二坪、真宗高田派本山専修寺末寺である。創建は弘安六年(一二八三年)で瀞顕を開祖とする。瀞顕は尾張国山田荘の住人、従五位山田左近将監正親山田重就の三男で山田三郎泰親といい、山田荘の上菱野村を領有する地頭職であった。
泰親は職をその子重元に譲って閉居しているとき(弘安四年の春)下野国高田専修寺の第三世顕智上人がこの地に来錫したのを迎え、深く帰依し薙髪し、その弟子となり法名を瀞顕と賜わった。高田におもむいて真宗の法義を会得し、帰郷してこの寺を開いた。布教につとめること二十余年、嘉元二年(一三〇四年)二月享年六十七才で入寂した。
この子重元が二世をついで瀞明となり。三世瀞親、四世聞瀞、五世瀞雲、六世龍雲、七世浄慶(本堂再建)、八世浄信、九世浄円、十世浄岳、十一世聞教、十二世秀円、十三世慶西、、十四世宗順、十五世宗金、十六世宗保、十七世慧俊、十八世慧倫(本堂再建)、十九世智雲、二十世維俊、二十一世良雲、二十二世良善、二十三世良玄、二十四世良宜となり、七百年の間、歴代住職は連綿として嫡々相承されている。
九世浄円は北熊に末寺宗円坊を創建したが、十六世宗保の代に宗延寺と改称した。十二世秀円は大草村に豊春坊を建てたが、十七世慧俊の代に廃絶した。十四世宗順は菱野村に西光坊を建て、十六世宗保の代に西光寺と改めたが、その後転派するところとなった。
天明八年四月、尾張宰相(藩公)が当村の物見ヶ岩見物に立寄ったとき、本泉寺に御膳所を申しつけられた。
弘安六年創設以来、時代の変遷によって、境内地等減少したが、昭和五十八年が創建七百年、この期に記念事業として檀信徒の総意により、三度目の伽藍新築落慶をみ、境内の面目を改めた。時、平成元年四月、二十四世良宜の代。

(3)大成山興福寺

大成山興福寺は、山口字北山一九〇番地の五(現在八幡町三五八番地)にあって、当初青松庵と称し、小僧が堂に住み護持していたという。
亨和三年、宝泉寺六世佛国潮音和尚が開山された。その後、宝泉寺九世晩器大成大和尚が、当時山口地区宝泉寺檀家十六名を檀信徒とし、法地寺院として寺号を興福寺と定めた。なお晩器大成大和尚は、僧位をうけ山号を大成山と命名され今日に至る。
現在は、五世種月貞雄和尚が嫡々相承されている。

四、祭礼

(1)古式ゆかしい祭礼

山口の祭礼献馬は十二島より成っており、小西島、上島、中島、矢戸島、海上島、吉田島、郷島、上ノ山島、掛下島、今西島、今東島、矢形島、で組織され、各島から一名青年幹事が選出され、又幹事より青年幹事長がえらばれ、その年の祭礼行事をつかさどる。
村祭事が四名いて祭礼が警固、又献馬等きまると青年幹事長に伝える。青年幹事長は、祭事係、青年幹事をあつめその旨を話し協力を願い棒宿(棒の手を練習する家)また、馬宿をきめて貰う。馬宿がきまると、提灯を持ち肴をたずさえ、馬宿に契約の挨拶に行く。
又、棒の手も同じく棒宿をきめて貰い、棒の手開きといって、棒にお神酒を供え、棒の手の師匠を招き祝宴をあげる。
こうして準備を整え、前日になると奥行二間、間口一間半の馬屋を馬宿の庭に作り、その朝、馬付は馬元に祝辞を述べに行き、お神酒をいただく。
馬付とは、馬の口を左右より一人ずつ取る人と、裏綱を同じく左右二人ずつ取る計六人の人のことをいう。
ヘノヨ
当日は、朝早く馬の垢離を取りに行くのであるが、前日用意した、山口川に〆縄を張り浮めた垢離取り場である。
午前中、三回山口川で垢離を取り、昼から八幡社へと向う。隊列の順は、先ず村祭事、それから露払いといって三十才から三十五才までの人が一文字笠をかぶり、羽織袴に七節半の青竹で作った杖を持って先頭を進む。
そして、中割といって三十才より四十才ぐらいの人が派手な格好の衣裳を付けて鞭や扇子を持ち中間に立って行列の指揮に当る。
鉄砲隊は二十一才から三十八才までの人が黒い陣笠に黒い絆天を着て、風切(金の糸で龍、寅など刺しゅうした胸あて)を付けて、黄色のたすき黄色の鉢巻、火縄銃の銃口近くを黄色布で結んだ銃をかつぎ、右手に火縄(竹を細くくだきほぐして作った縄)を持ち、足には黄色い緒のわらじをはき、一文字笠の後に続く。
其の後、馬囲(十二丁鎌)は、島幹事が十二人、長柄の鎌を鋭利に研ぎ、標具を警固する。道中、少しでも邪魔になる樹木は、一切切り払われる。つづいて飾り馬が続く。
馬大将には、馬宿の主人が成り、陣笠・陣羽織を身に付け、水柄杓に馬のわらじを持って馬の前に、馬には、九本の矢標具に鈴を付けて進む。馬付きは三十才以上の人が成り、絆天に腕貫をし、馬の口取りには左右一人ずつ、右の人が本口取りといい、左の人が添え口取りと呼ばれる。
最後に棒の手隊が続く。棒の手は十五才より二十才迄の若者で、白いたすきに白鉢巻をし、黒い腕貫に槍・太刀・長刃・鎌等々を持って馬の後に続く。
こうして隊列を組んで奉斉、奉斉、(ホッサイ、ホッサイ)の掛声も勇ましく前進する。途中発砲場所が作ってあり、その場所に着くと、一斉に火縄銃に火薬をつめ込み、発砲の用意をする。
先ず鉄砲隊の先頭には、役筒といって鉄砲隊長が居り、最後尾にも同じく役筒、副隊長が居て指揮を取る。
後尾の役筒が用意が出来ると準備完了の合図により発砲をする。次に、前の役筒より撃ての合図の発砲をすると、後方より一斉に前へ前へと撃ち上げて行く。撃ち終ると「ウワー」と立ちあがり、八幡社の境内に走り込み、境内を三回廻る。廻り終ると神前で全員うず巻き状にかたまり気勢を揚げて別れる。
この後、棒の手の演技が奉納される。各島より日頃鍛え上げられた素晴らしい演技が次から次へと披露されて行き、祭も最高潮に達する。
午後四時頃に成ると、境内に全員が集合し、神社の広場を一廻りし、本泉寺に祀ってある山口観音を参拝して祭りが終るのである。
その頃には、あたりは薄暗く村祭事、青年幹事長の提灯に火が入り、火縄の先火がちかちかと美しく螢の火の様に動く。
最後の発砲場所で、一列に並んだ火縄銃の銃口から、暗くなった夜空に、真赤な炎が次々と撃ち上げられる。周囲の山々に銃声がひびきこだまする。これで勇壮で壮観な祭りが終了するのである。

(2)天王祭
梅雨の明ける頃、全国各地の町や村で天王祭が行われる。この中で最も有名なものが、京都の八坂神社と愛知の津島
神社の祭典である。お祭りの山鉾や山車、まきわら舟など、夏の風物となっている。
全国へ普及していった天王祭は、暑い夏を迎えるにあたり、疾病にかからないようにという祈願と、子ども達が、
須佐之男命のようなりっぱな人間に成長するように、という願いをこめて行われた。
山口八幡社の末社である、須佐之男命も天王社と同じである。
この社は、江戸時代中期には、すでにお祀りしてあり、尾張名所図会にも記されており、由緒深いお社である。
昔は、このお社の前に、山口村の老若男女が集って、健康長寿を祈ったことであろう。

五、山口川の氾濫
(1)山口川の大洪水
江戸時代のころ、大川(山口川)は、しばしば氾濫をし、人家や田畑を押し流し、その都度多くの死者を出している。
山口川は、赤津村から海上の北を流れ、屋戸の部落へ流れてくる。その途中は、比較的に深い沢を蛇行している。
大雨になると、山岳地帯に降った雨水がいっきに山口川へと流入し水かさが急激に増加する。
それに加えて、土砂くずれ、地すべり等により、山口川の流れを堰き止めることがあった。自然がつくったダムに
水がたまり、一定量をこえると堰が決壊して、大量の水が下流へ押し流されてくることがあった。
山口村の中でも、山口川は屋戸から大坪にかけては、大きく蛇行している。その上、村内の各地から、支流が流れ
こんでくる。
明和四年(一七六四年)七月十二日から十三日にかけて大雨が降り、山口川が氾濫をした。
山口村本泉寺の記録によると、男二名・女二十二名が水死したと記されている。

この明和の大洪水は、尾張地方全域で大きな被害を出した。山口川と瀬戸川が合流して矢田川となり、名古屋城下
では庄内川となって、熱田の海へ流入した。
海部郡美和町の光専寺の記録によると、「赤津・山ロヨリ大洪水ニテ凡ソ数千人斗り流出溺死ス依之当山ニテ御弔ヲ
行フ」「枇杷島川切込大勢死ス」とある。
光専寺恵広上人は、本泉寺第十七世上人の弟であり、同じ真宗高田派の住職であった。

(2)山口堰堤と百姓一揆
大正末期、当時の瀬戸町が水道の水源地として赤津の馬ケ城を計画し発表した。
山口川の水は縄文の昔から稲作をしていた住民にとって「一滴たりとも他に引用することは一大事」と言い伝え守
り継がれてきた灌慨用水である。
山口川流域、愛知郡幡山村大字山口の農民は、すわ一大事我々の死活問題と反対ののろしを挙げたのである。
菱野・旭・守山地区に事情を訴え、これを阻止すべきか許すべきか、他に方策があるか、再三再四部落協議が重ね
られた。
当時第二区より選出された樋口善右衛驚代議士がいた。農業問題に関心が深かったので、代議士に相談し解決策を
得ようとあせっていた。
四月三十日の夜、山口本泉寺においてこの問題について村民大会が催され、議論百出、けんけんがくがくの末、若
き青年達の提案した最後の意見として、むしろ旗を押し立て県庁へ農民一揆を決行することに決めた。
時刻は深夜、直ちに村内に連絡せねばならない。村内の要所要所にある火の見やぐらの半鐘を打ち鳴らした。これを
合図に一戸一戸蓑傘姿、わらじ、むしろ旗を先頭に勢揃いした村人達は堂々と西を指山して出発した。
山口川を下り本地へ出て、本地ケ原を通り猪高村大字猪子石に着いた。夜も明け方であった。
猪子石の香流橋を渡ろうとした時、先方より突如警察官を満載したトラック、黒い制服に着剣、顎かけ姿のものも
のしい警察官が抜刀して『止まれ』と大喝一声。
一揆の連中は、素早く草むらや土手の陰からかくれ去り、北の方へ逃げ去った。
トラックから飛び下りた警官はこれを追跡したが巧みに逃げた。捕らえられた面々は守山から電車で帰るよう説諭
され、むしろ旗を捨ててすごすご家に帰った。
関門香流橋を通り抜けた十数人は歩いて県庁(現在の中区南久屋町)まで行った。同志が来るものと信じた者達は
思案した上、俺が県庁まで行って談判してやると言った者も時間が経つにしたがって意気消沈してすごすご帰った。
この上は瀬戸町役場へと、わらじ股引き姿で山口の人々が押しかけた。そうした経緯があり樋口善右衛門氏とも折
衝し善後策を協議、町とも再三交渉を重ねた結果、山口川に堰堤を構築し沿線農民の灌慨用水に充てることになった。
当時巨額の費用を投じ県が作る計画を進めた。
山口川の谷間に足場を組み、コンクリートと砂利砂も背負う、全くの人力で延べ人員数万人も掛ったと言う。人夫
は割り当てで、幡山村から順番制で出た。最初は堰堤管理費として、瀬戸町から当時の金で年、金一万円を山口地域
に出すという条件が記録されていた。

(3)山口川の改修工事
大正の初期頃までは、山口川の氾濫で、堤防という形のものは見受けることができなかった。大雨の降るたびに水
の流れは変ったものである。
このころ、幡山村の事業として、山口部落と菱野部落をむすぶ道路として、山口川の右岸に人や馬車の通行できる
土手道を建設した。この土手道に昭和の御大典記念として、青年団が中心となり桜の木が植えられた。この桜は年々
成長して美しい花が咲き、山口の天神橋から、菱野大橋まで、花のトンネル道が作られた。辮当を持った花見の客を
チラホラ見受けることができた。
昭和五~六年は、農村凶荒の時代であった。米一俵が七、八円位になり、全国的に不景気となり、街には、失業者が
多勢職を求めていた時代であった。
愛知県は、農村不況を救済するために、国営事業として山口川の改修事業を計画した。第一期工事は、県道瀬戸挙
母線にかかる天神橋下流から始められた。曲りくねった流れをある程度眞直ぐにして、川巾を一定にして、両側に堤
防を造る工事であった。この作業は、鶴階にスコップ、そしてトロッコに土砂を載せて、人力により運搬をした。山
口公民館の運動場一帯はこのとき埋立てられた。このほか希望者の田、畑、雑種地も各所で残土処理がおこなわれた。
年次計画に従って毎年工事が進められて、菱野橋までは、三か年で完成された。その後、本地地内についても、継続
事業として工事が進められて、現況の河川となったのである。
この当時の県河川課の担当者は、武田千代吉技師であった。また現場の監督者は、高藏寺村の白山より、毎日自転
車で通勤した松本英一氏であった。
この山口川の改修工事の人夫は、幡山地区の青年は勿論のこと、遠くは、長久手村、日進村、高藏寺村方面から、
自転車で来て作業をした。すべてが人力にたよる作業であり、一日の従事者は、百人を超えたといわれている。

六、江戸時代初期の山口村

七、江戸時代後期の山口村

八、明治以降のくらし
(1) 狂俳(前句)

(2)山口蛙目粘土
明治から大正にかけ瀬戸挙母線は、三河と東尾張を結ぶ、唯一の幹線道路(今の国道一五五号線の前身)であった。
瀬戸坂と称していた、小高い山を蛇行した道は、厳しく峠を境として、現在萩山台の東部を抜け東茨町に通じてい
た。専ら馬車道で、人々はみな徒歩で町へ出入りしていたのである。

人の往来は相当多く、峠にかかる手前には、寿司屋、饅頭屋、煮物売り屋があり、通行する人達の退屈さをまぎら
わしていた。
又、山口の中心部の郷、田中あたりには、木橋ながら立派な天神橋が架橋されていた。村の周辺に居た人達も、し
だいに街道近くへ引越し、床屋、鍛冶屋、酒屋、宿屋、銭湯もできていた。夜ともなれば手拭を肩に農作業を終えた
村人達の姿も見られ、酒場からは夜の更けるまで唄声も聞かれたという。
その当時できたのが南山の森村水簸工場である。ここに目をつけたのが日本陶器の社長森村義行であった。現在で
は、その名前が地名になり、今そのあたり一帯を森村と呼ぶようになった。
山口の蛙目といえば全国に知られ、当時の学校の教科書にも載せられていた。優秀な陶器を焼くにはどうしても山
口の蛙目を使わねば、というので日本陶器の社長の目にとまったわけで、当時の山口村大津賢廉の協力のもとに
この地へ工場誘致をしたものと思われる。
設立当時は、南山に敷地三十ヘクタールを買収し工場建設に当て、日本で初めての英国製吸水式ガス発動機を輸入
し、それに卿頭プレスを備えつけた近代設備を誇るものだった。ここで水簸するために、東側の山に燧道を掘り、
蛙目粘土、木節粘土を工場まで運んでいたのである。

(3)ミヅウチ粘土と採掘者
天保年間から昭和の初期にかけて、山口村字南山三一八番の一(現在南山口町)の県有土地の地下には、ミヅウチ
粘土が埋蔵されていた。この粘土は、陶器の紬薬に使用されていた。
最初に発掘した人は、山口村七番戸の高島和右衛門の長男・高島新平、(天保四年五月生)である。露天掘りに
よって採掘していたが、このミヅウチ粘土は、赤津村・瀬戸村の陶器工場の紬薬に愛用されていた。
高島新平は、駄馬に粘土を積み、若宮の「おんか坂」を越えて、塩草から赤津の窯焼きに運んだものである。
その後、採掘者は、高嶋佐太郎から、大沢喜重と変っていった。
昭和の初期には、荷馬車により挙母街道(現在国道一五五号線)を瀬戸村を通り赤津村へと運搬されたのです。
現在でも、このミヅウチ粘土の採掘されていた山(お富士山の西の谷)をミヅウチ洞と呼んでいる。

(4)山口の駐在所
この山口部落は、東には猿投山ろくの山々が連なり、南は富士ヶ峰を最高峰とした丘陵地が連なり、菱野の南山へ
と延びている。西は開けていて、濃尾平野に接し、北は高根山から丘陵地で東山に接していた。三方を山に囲まれて
いて、盆地といってもよい地形をしていた。
山口地域の面積の大部分は、山林地帯である。もちろん土地の所有者は、愛知県の名儀が大部分をしめていた。
このような地勢から、山口には山を見廻る通称「山巡査」が、大正の初期より山の巡視をしていた。その駐在所は、
八幡池の土堰堤南側にあった、小じんまりした、一軒家であった。その最後の駐在員は、永田吉太郎であった。
昭和二十一年には、幡山東小学校の西(幡山東保育園)に木造瓦葺の平家建の駐在所が建設された。
当時は愛知郡であったので、愛知署から巡査が派遣されてきた。戦後の食糧難の折とて駐在所もいろいろの面に
おいて活躍をした。
昭和四十年には、山口土地改良区の設立認可により、改良工事も着々と進行していった。その際、古い駐在所が老
朽化していたので、国道一五五号線に添った田中町に新築することが決定した。建設委員長には、川原力松が選任されて、
新築竣工をした。
(5)兵隊送りの行事
徴兵制度の施行により、男子には兵役の義務が課せられた。満二十才の四月頃になると、徴兵検査を受けなければ
ならない。
幡山村検査会場は、愛知郡鳴海町の小学校であったその内容は、検査会場で、身長、体重、胸囲そして内科の診療を
受けたのち、手首、足首、痔、林病等の諸検査を受けなければならない。
その結果、一定基準に従い指令官(佐官級)が、個人個人に甲種合格、第一補充兵合格、第二補充兵合格、丙種合
と言い渡しますので、復唱をして検査が終了する。
現役の甲種合格者は、兵種(陸軍、海軍、空軍)により、多少の入営日は違うが、徴兵検査の翌年の一月十日に入営
することになる。現役の入営期間は二年間が通常であるが、下士官を希望する人は、それ以上の勤務が必要となってくる。
日清、日露戦争当時のことはよくわからないが、満州事変、日中戦争の応召者はもちろんのこと、現役の入隊者は
すべて、山口部落から兵隊送りの行事をしたのである。
山口の場合は、郷社八幡社の境内の神前で、区長、在郷軍人・国防婦人会、小学生の高学年、親せき、友人、隣人
の参加のもとに、宮司のこ祈禧を受けた後に、区長及び在郷軍人の山口支部長より激励を受け、出征兵士の代表がお
礼の挨拶をしたのち、最後に万歳三唱して式典が終ります。
在郷軍人の旗を先頭にして、出征兵士・在郷軍人・国防婦人会・小学生そして親せきの順に隊列をつくり、郷社八
幡社を出発する。手には、日の丸の小旗を持ち、矢形・今林・米泉を通り菱野熊野社まで、軍歌を歌って送ったもの
である。
当時の役場は、東福寺西の木造二階建の一軒家であった。村長、助役、収入役、戸籍係、兵事係の五~六名が村の行
政事務をしていた。
出征兵士は、役場で出征の挨拶をしたのち、名鉄三郷駅(旧瀬戸電)から、それぞれの入営地に親せきの者に付き
添われて、入隊したものである。
また、帰還兵士については、入営と反対のコースで、菱野熊野社に区長、在郷軍人・国防婦人会・小学生が出迎え
に行く。郷社八幡社に帰り、神前で各種団体より挨拶があり、その後に帰還兵士から、お礼の挨拶があり、その後に
解散をした。
大東亜戦争(太平洋戦争)の中期頃は、国鉄バス北山口駅で、出征兵士を送ったが、戦争の激化にしたがいこの兵
隊送りは、なくなってしまった。

九、伝説
(1)山田次郎重忠公異聞
重忠は、八重咲きの見事なつつじの咲いている寺の前を通り掛った。あまりにきれいなつつじに一目見るなり、ほ
しくてたまらず、ある日一株を分けて貰らおうと出掛けました。しかしお坊さんに逢うと、こんなに大切なつつじを
呉れと言えなくなり、そのまま帰りました。
その後、その坊さんが罪をおかしてしまい、牢に入れられる事になりました。重忠は、牢に入る変りに絹の織物を
差し出すか、八重のつつじを差し出すか、と係りの役人に告げさせました。すると、坊さんは、絹の織物を差し出し
ました。役人は、主人は八重のつつじをほしがって居りますから、つつじの方にして呉れないかと坊さんにたのみ、
つつじを貰って帰りました。重忠は大変喜こんで、その役人に半分やろうと言いました。
役人はとてもとてもいただけません。あの坊さんは、私はこの花があるからこそ毎日楽しく過ごす事が出来ました。
この花を心から愛しています。殿様からの心からのお願いであれば喜こんでこの花を差し出されたものでございます。
「私がいただいては、あのお坊さんの心ざしが無になってしまいます」といって受け取りませんでした。

(2)弾藏の常夜灯
本泉寺境内の東南にある常夜灯。
百六十年程前弾藏という人が天狗の供をして三年間諸国を巡行した記念に諸山に奉納したものである。
村人が百六十余年、毎夕点灯リレーしてきた。
本泉寺十九代智雲師による「由来記」一巻
永代敷地証文の事
金一両二分
右は常夜燈と供養石の敷地料として受納しました。
寺社お役所へも届け済み。永代故障ありません。
後代の者にも申しおきます。後日の証にしるしました。
亨和三年十一月
本泉寺十九世智雲自筆(花押)
山田弾藏殿
(3)越中川由来
慶長十五年三月三日、加藤清正が名古屋築城の総大将となり、各地より石集めが行なわれた。
山口の塚原の石切り場や、又廃城となった南山城の石垣の石を運ぶ人足が、連日、石運びにかり出された。
ある日、数人の曳く一台の石曳車が台六川まで来て、ヤゲンス(道のくぼみ)にはまり込み、押せども引けども動
かなくなってしまった。
人足たちは、汗みどろ揮一つになって、車を曳き出そうと一生懸命であった。
最前より、傍で弁当をたべながら休んでいた、富山のくすり売りが、この様子を見ていて、よほどその格好が面白
かったのか「くすくす」と笑った。
その声が、人足頭の耳に入ったとみえ、怒った人足頭はその場で、くすり売りを斬殺してしまった。
それ以来、台六・南山に火の玉が出る様になった。地元の人は、これは殺された、くすり売りの霊が迷って出て来る
のではないかと、恐れられていた。
そして、そのくすり売りが越中富山の人であった為、何時の間にかこの大六を越中と呼ぶ様になり、川の名も越中川と
なった。